↑在宅系サービス担当時、ご利用者様よりお預かりし、複写させて頂いたお写真です(10年ほど前)
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戦後、79年目の夏。
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上村鵠生会は終戦より29年後の昭和49年に設立、今年で50年の節目を迎えることが出来ました。
この間、数多くのご利用者様より戦時/戦後のお話を伺える機会に恵まれ、一時期ですがその言葉を記録させて頂いていました。
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「今でも戦死したはずの主人がひょっこり帰って来てくれるのではないかと心のどこかで待っている私がいます」
「主人の戦死後、私は一人で必死に子供を育て生きてきました。 だから私が死んだ際、迎えに来てくれた主人には〝良く頑張ったね〟とたくさん褒めて欲しいのです」
「兄が出征する際、万歳と笑顔で見送った父がその夜、納屋で声を殺して泣いていたの憶えています」
「父が駆逐艦と共に沈んだと戦死広報が届いた後、母は〝水の中は冷たいねー冷たいねー〟と父の枕を泣きながら抱き続けていました」
「電車の向かい席に戦友(戦死)によく似た若い人がいると、〝まさか生きていたのか〟と驚いた後、年老いた自分に気が付き一人で笑っています」
「灯火管制で夜は真っ暗闇。 しかし終戦後、空種を恐れることなく電気の灯された街に妹は〝ホタルみたい〟と喜んでいました」
「撃墜した米軍パイロットの悲しそうな顔が今でも忘れられない」
「特攻志願後、残す母と妹を考えると申し訳なくて申し訳なくて… 終戦により出撃中止となった際、悲しみではなく嬉しくて泣いてしまった」
「アメリカ軍が上陸してきた際、どの様に自決するかを母と姉とで話し合いました」
「終戦後、鵠沼海岸から沖合を見ると海がアメリカ軍の艦艇で埋め尽くされていた」
「食べ物が無く、農家に頼んでお米と着物を交換して貰っていたけど、終いには着るものも底をついて途方に暮れた」
「復員し自宅に戻った際、父は私の足にしがみつき〝足がある!生きてる!〟と泣き続けていた。 後で聞くと私は既に戦死したものと諦めており、幽霊でも良いから〝ご苦労様でした〟と抱きしめてあげたいと父は願っていたそうです。
だから、帰宅した際、最初は私のことを幽霊だと勘違いしていたと笑っていた。
その後、父はすぐに肺病で亡くなったが、あの泣き笑いを見る度に生きて帰れて良かったと思っている」
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中には〝話したくても話せる内容では無いよ〟と口をつぐむ方も。
思い出したくない、忘れたい方も。
我々では想像すらできない辛く悲しい時代。
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現在、入居者様の平均年齢は90歳(終戦時は11歳)
このままでは僅か79年前の出来事が歴史教科書の中だけになってしまいます。
なんとかして繋げねば・・
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戦争、そして復興。
この国がもっとも厳しかった時代に現在の礎を灰の中から築いてくれた方々。
残された大切な時間を少しでも穏やかに、そして笑って過ごせるよう願ってやみません。
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※写真はすべて上村鵠生会をご利用くださった方々です。






















…ゆっくりお休みください。
そしてこの国が道を違わぬよう草葉の陰で見守ってください。